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キリスト教ヨーロッパにおけるポーランドの1050年

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まず、ポーランドの洗礼はどういうことだったのかと考えてみたいと思う。キリスト教は信仰である。信仰は心,
精神で感じるものである。そのため、言葉で理路整然と説明することは難しい。
ポーランドは10世紀にキリスト教を国教としたわけだが、この時に完全にポーランドに根付いたわけではない。
その後、数百年かけて、ポーランド人の精神に徐々に浸透していった。つまりポーランドのキリスト教受容はある
時期の一過性のものではなく、長い年月をかけたプロセスだった。

キリスト教のことを簡単に紹介するために、日本で司祭として何年も、活動されたベルギー生まれのミシェル・
クリスチャン神父の言葉を借りて、説明しよう。キリスト教は自然宗教の要素を保ちながら、啓示宗教であり、
歴史的宗教である。

自然宗教には多神教,シャーマニズム、アニミズム、汎信論などがあり、いずれも自然現象に対する畏れに基づいて
成立している。自然宗教における神々というのは、大自然とその力を神格化したものである。その例としてギリシャや
ローマの宗教、日本の神道、アフリカの宗教、ゲルマン宗教などがある。ポーランドに住んでいた部族も
ミエシュコ1世が10世紀にキリスト教を受け入れる前は、そのような多神教の信仰を持っていた。

キリスト教の教義では、大自然とその力は唯一の神によって創造されたものである。自然は神の栄光の現れであるから
大切にしなければならない。キリスト教の基本である聖書の旧約の創世記の最初に、「はじめに神は天と地とを
創造された」と書いてある。キリスト教は自然を神の作り物として、尊重している。そのためにそれぞれの国の
自然宗教に基づく習慣や儀式を取り込んで、吸収、同化を図るように努める。そのひとつの例はイエス・キリストの
誕生を象徴するクリスマスツリーである。

啓示宗教とは、唯一の神からその教えを授かった宗教である。キリスト教の他にユダヤ教とイスラム教がこれに
当たる。それに対して、例えば仏教は神秘的な体験による宗教であり、ブッダというある個人の悟りなどをもとに
成立した信念である。キリスト教にも神秘的な体験と関係ある教えや神秘主義はある。

キリスト教は歴史的な宗教である。キリスト教の他に歴史性を持つ宗教はユダヤ教である。イスラム教には
歴史性がない。なぜかというと、イスラムによるとムハンマトが大天使ガブリエルを通して、直接神からコーラン
を授かり、その教えは絶対で普遍である。歴史観がない。

キリスト教によると、神が最初から常に人類の歴史に働きかけており、その歴史に大きな影響を及ぼしている。
神が歴史に働きかけるという概念はユダヤ教から始まった。それまで、すべての宗教は、神の働きかけは大自然に
留まっていると考えられてきた。

キリスト教によると、歴史は未来に向かって進んでいくが、未来の終着点は「終末」である。それはこの世の終わり
という意味だけではなく、むしろ完成で、「神の国」の実現である。だから恐れることではない。

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写真1)ワールドユースデー、クラクフ2016年7月

キリスト教徒と教え

現時点では (2015年)、全世界にキリスト教信者は全体:約22億人いる。カトリックは約12億人、
プロテスタント諸派は約3.5億人、正教会は約2.2億人、その他教派約3.9億人である。
残念なことに、キリスト教信者は世界で一番迫害されている人々である。Open Doors非営利組織によると、
2016年だけで世界のキリスト教信者約1億人が自由に信仰を生きることができないか、拷問されたか、
拷問を含めて命を落とした。キリスト教信者を迫害するのは特にイスラムの国や他のイスラム的なテログループや
全体主義政権などである。

信者が一番多いカトリック教会は普遍の教会で、はっきりとした組織を持っている。全世界に12億人以上の信徒を
有するカトリック教会の最高位聖職者はローマ司教で、全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇だ。

キリスト教の教えは聖書に基づく。聖書は旧約と新約から成り立っている。旧約はユダヤ教と一緒である。
カトリック教会によると、聖書は真の神からの教導権をもって 「神感によって書かれた書物で、神様が人あてに
書いた手紙である」。聖書は、4世紀頃に公にキリスト教会の教権によって確定された。

旧約は紀元前12世紀から2世紀まで、大体1000年かけて作られた書物である。神様が人間に様々な規則や掟などを
伝え、予言者たちを通して、救い主のご誕生を約束された。救い主イエス様の降誕、十字架での死と復活は、
すべては旧約に予言され、すべての予言は32歳のイエス・キリストの人生に実現した。紀元1世紀から2世紀に
かけて、イエス・キリストの生涯や福音と呼ばれる言葉や活動についての事実などが、新約に纏められて、
キリスト教の正典となった。

神様がイエス様を通して世界の人びとと旧約の代わりに、新しい約束を結んだ。イエス様の教えは愛、慈善、
自由、平和と慈しみに基づいている。キリスト教の基本的な考え方は神とは「無条件の愛」である。神様が
例外なしに、すべての人を自分の子供のように愛しているということである。マルコによる福音に
イエス・キリストの言葉が書いてある:「心を尽くし、精神を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、
力を尽くしあなたの神である主を愛しなさい。第二はこれである。あなたの隣人をあなた自分のように
愛しなさい。これらにまさる戒めは、ほかにない」。「マルコ 12、30-31」

イエス様が自分の使徒に全世界の人に福音を告げるように言われた。
マルコによる福音書 16:15 に書いてある:そのとき、イエスは11人の弟子に現れて、言われた。
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテイスマ(洗礼)
を受ける者は、救われる。しかし、信じない者は罰に定められる」(マルコ 16、15-16)

その言葉に基づいて1549年、フランシスコザビエルが来日して、日本のカトリック教会を創設したが、
日本の権力は16世紀の終わりに、キリスト教を迫害の対象とした。

ヨーロッパでも4世紀の初めまでキリスト教信者への迫害が続いた。313年、ローマ帝国の
コンスタンティヌス大帝は当時ローマ帝国の首都であったミラノで勅令を出し、キリスト教を公認した。
380年にテオドシウス1世は、キリスト教をローマ帝国の国教と定めた。日曜日が全市民の休日となり、
教会にはいろいろな特権が与えられた。例えば、当時の司教は、その地域の知事と同じ権利を与えられて
いたので、知事を象徴する帽子、ミトラをかぶり、知事と同じ紫の服を着るようになった。教会と政治の一致は
その後さまざまな弊害を生んだが、フランス革命まで続いた。

ポーランドとキリスト教
現在のポーランド国領で、6世紀までスラブ民族が定住し、8世紀までにいくつかの北西スラブ民族が諸国家を
作った。9世紀の初め、ポーランド南部で、スラブ民族の王国モラヴィア王国が栄えていた。831年に
その創設者であるモイミリ1世が洗礼を受けた。キリスト教は新宗教で、スラブ民族にはまだ熟知されて
いなかった。そのため、モラヴィア王国の主君だったロスチスラフ王子が860年ごろ、ローマ教皇
ニコラウス1世に、自分の領域に司教を在住させるように依頼した。しかし、返事が来なかったため、
東ローマ帝国のミカエル3世帝にスラブ語が話せる宣教師を送るように依頼した。

863年、東ローマ帝国のミカエル3世帝がモラヴィア王国に2人の宣教師を派遣した。スラブ語が分かる
キュリロスとメトディオス宣教師だった。彼等がスラブ語を話し、活発な宣教活動を行った。885年ごろ
チェコのボジヴォイ王子がメトディオス神父から洗礼を受けた。

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写真2)キュリロスとメトディオス宣教師

モラヴィア王国の次の主君であるスヴァトブルク1世の統治期間に、大モラヴィアの権威は頂点に達した。
大モランヴィア王国は、南ポーランドに住むいくつかの部族、ヴィスワ部族などを攻撃し、統治するように
なった。スヴァトブルク1世は、自分が統治する地域すべてをキリスト教の国にするとことを目指した。
そのためヴィスワ部族の王子も880年ごろ洗礼を受けざるを得なかったと思われる。現在のクラクフが
大モラヴィア王国の統治下になったので、キュリロスとメトディオスの宣教地となった可能性がある。
実は、ポーランドの南部にあるシュヴィエントクシシュ県のヴィシリツァ市(Wiślica)で、9世紀の洗礼盤が
発見された。

すると966年、当時ポーランド国の君主であるミエシコが公式に洗礼を受ける前、ポーランドの南部に住む
部族が東ローマ帝国の宣教師からキリスト教の教えを聞いて、洗礼を受けた部族がいたと可能性がある。
キュリロスと一緒に宣教活動を行ったメトディス大司教が、聖書をスラブの言語に訳し、スラブ各部族や
各国なでへキリスト教布教に貢献した。ポーランドの最初の主君である部族長ミエシュコの時代、
つまり10世紀半ばごろ、商人であるIbrahim ibn Jakubの日記に「ミエシュコの国は豊かで広い国である。
3000人の軍人がいて、ミエシュコがその軍人と彼らの家族をおさめている」という記述がある。

ミエシュコはポーランドの王国ピアスト朝の創始者で、963年即位し、事実上の初代ポーランド王であった。
965年、ミエシュコは北、西と南の方からの攻撃を恐れ、チェコのボレスワフ王子と同盟を結んで
ボレスワフの娘ドブラフカ妃と結婚した。ドブラフカは当時にして、かなりお年の嫁さんであった。
彼女は熱心なカトリック信者として夫を回心に指導したと思われる。

クシシュトフ・オジュグ教授著作「966年、ポーランドの洗礼」によると、ミエシュコが7人の妻を
持ったが、ドブラフカは彼等と別れないと彼女と結婚できないと伝えたため、ミエシュコが彼女の要望に
従って、キリスト教の習慣を身に着けるように努力した。ドブラフカがミエシュコの行動に妥協しながら
彼をキリスト教に導いた。966年ミエシュコが現在のポズナニかその周辺で洗礼を受けるようになって、
2年後ヨルダン司教をポーランドに招いて、国民にキリスト教を宣教するように依頼した。

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写真3)「ポーランドの洗礼1050周年」(記念紙幣)

ミエシュコはポーランドの君主として洗礼を受けた途端に、ポーランド国家は生まれた。ミエシュコが国の
領土を確定するため戦い、990年ごろシロンスクとマウオポルスカを統合した。991年ミエシコが統治する
キリスト教国家であるポーランドをローマ教皇に奉じた。同時に、ミエシュコがポズナニを中心とし、
グニエズノなどポズナニ周辺にいくつかの教会を建設させた。

大学教育

冒頭に申し上げたように、キリスト教の教えと文化を導入することは長年にわたるプロセスだった。
ポーランドはキリスト教の国家として発展し、特に国の教育体制が発展した。1364年、カジミエシュ3世が
クラクフでクラクフ大学(現在のヤギエウオ大学)を創設した。その大学はヨーロッパで一番古い大学の一つ
である。当時は、クラクフ大学は教皇領に属する宗教的な組織で、クラクフ司教が大学を監督した。初めに
自由科目部いわゆるリベラル・アーツ、医学部とローマ法に基づいた法律部、3つの学部ができた。教皇が
神学部を作る許可を与えなかった。

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写真4)クラクフ大学

1384年、ハンガリー出身のヤドヴィガ妃がクラクフのヴァヴェル城でグニエズノの大司教にポーランドの王に
祝別された。1400年にヤドヴィガ女王が自分の財産を大学に贈呈し、教皇に請願した結果、クラクフ大学は
依願通り神学部を含めて、4つの学部から成立つ大学として復興された。当時、神学は学部門として一番重要な
科目だと思われ、神学部のある大学は研究中心大学となっていた。

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写真5) ヤドヴィガ女王

ヤドヴィガ女王は熱心なカトリック信者で、ヴァヴェル城の御堂の黒い十字架の前で祈っていた。
クラクフ市民は彼女の道徳的な生活と慈善活動に感銘を受けた。ヤドヴィガ女王にはいくつかの奇蹟が
起こったため、カトリック教会の聖人として公認された。

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写真6)ニコラウス・コペルニクス、Toruńコペルニクス資料館

ヤドヴィガ女王のおかげで復興されたクラクフ大学が偉大な人物を育てた。その一人はニコラウス・
コペルニクスだった。幼いころ、両親がなった、彼と兄弟を育てたのは、ポーランドの北部にある
ヴァルミア (Warmia)地方のカトリック司教を務めたLucas Watzenrode叔父だった。コペルニクスの
兄弟がカトリック司教になり、妹はベネディクト修道女会に入会した。ニコラウス・コペルニクスは
1491年から1495年までクラクフ大学で自由科目を学習した。その後、叔父のそばで律修司祭を
務めた。コペルニクスは天才だったと言っても可笑しくないだろう。天文学者として天文学史上大発見で
あった太陽中心説、地動説を唱えた他、医者、知事、長官、法学者でもあり、経済学者としても実績を
残した。

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写真7)クラクフ、ヴァヴェル城

一般教育の導入

カトリック教会はヨーロッパの教育の土台を形成し、一般教育を始めた。
1617年カトリック教会で聖人と公認された、聖ヨセフ・カラサンスJose de Calasanz(1557-1648)に
よって創立されたエスコラピオス修道会が作った小・中学校教育体制である。スペイン生まれの
ヨセフ・カラサンスは、1597年、ローマで貧しい子どもたちに無償教育を施すため学校「スコラ・ピア」を
開いた。一般教育のない時代、ヨーロッパで初めて、無月謝教育体制を作った。
同修道会は青少年の人間的・キリスト教の精神に基づいた教育を通して、社会の刷新を図った。
「幼い頃からの教育」の重要性を認めて、活動の重点を基礎的な教育とキリスト教要理の教育を目的とした
小・中学校に置いた。社会に奉仕する人材育成育を目指し、一般教育の先駆者となった。恵まれない子どもたちを
はじめとする青少年らの教育に特化した最初の修道会であった。「スコラ・ピア」の「開かれた、外に出て行く」
精神によって、その活動がイタリア各地から、ヨーロッパ諸国、そして世界へと広がった。同修道会は、
1950年に来日し、三重県の四日市にエスコラピオス学園 海星 中学校、高等学校を開いて、別のところに
幼稚園を開いた。2016年エスコラピオス学園理事長を務めるのはポーランドのエスコラピオス修道会の
アダム・クジャクAdam Kurzak神父である。

世界の初等教育創始者である聖ヨセフ・カラサンスは、「教育は人間を包括的な開発に導く手段で、
個人的かつ社会的、そして精神的、宗教的な開発の役割と重要性を含んでいる」と言った。彼の教育理念は、
どの国においても変わらず、「神さまを信じる心をもち、自分の信念を貫き通す強い忍耐力を持ち、そして
それらが育つような豊かな心をつくるように」ということだった。

エスコラピオス学校で学習し、世界文明発展に貢献した人は少なくない。エスコラピオス学校卒業生の中に
日本でも有名な人がいる。画家であるフランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ、遺伝学のグレゴール・ヨハン・
メンデル、作曲家のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、フランツ・ペーター・シューベルト、
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン、スペインの建築家アントニオ・ガウディなどである。ポーランドで
エスコラピオス学校の卒業生の中に作曲家のスタニスワフ・モニューシュコ、軍人のタデウシュ・
コシチュシュコや音楽家のヴオイシエフ・ボグスワフスキなどの名前が並べ立てれられる。

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写真8) エスコラピオス修道会の教会、クラクフ

1642年、ヴワディスワフ四世ポーランドの王の尽力のおかげでエスコラピオス修道会がポーランドに
入って、著しい活動をしはじめた。エスコラピオス修道院はワルシャワ、クラクフ、ポドリニツェ、
ジェシュフなどの四カ所に建てられた。同修道会が運営する小・中学校も建設された。ポーランドの
子供に宗教、人種、社会地位と関係なく、ユダヤ教の子供、ローマ(ジプシー)の子供、貧しい子供など
皆一緒に学校で学習するチャンスが与えられた。1738年、ワルシャワのエスコラピオス学校に生徒が
1050人もいた。当時、そのような学校がポーランド全国に十カ所にあった。

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写真9)スタニスワフ・ヒエロニム・コナルスキ神父

聖ヨセフ・カラサンスの事業を受け継いだのは、ポーランドのスタニスワフ・ヒエロニム・コナルスキ神父
(1700一1773)だった。コナルスキ神父は「教育は無償で与えるべき」というカラサンスの考え方を
もとにして、新しい法律にのっとって、教育の改善を促した。コナルスキ神父は1740年ワルシャワに
Collegium Nobillum とういう学院を創設し、貴族の子供が責任をもって将来、道徳に基づいて国の政治を
行うことができるような教育をさせることを目指した。彼の教育改革提案は国のために良い市民を育つという
考えだった。学校の科目として、歴史、哲学と法律、地理学、政治学、思想と外国語などが教えられた。
コナルスキ神父の教育基準を用意する活動が1773年、国民教育委員会 (Komisja Edukacji Narodowej)、
世界初の文部省と言える政府教育行政機関創設に繋がった。

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写真10) エスコラピオス修道会が運営する高等学校、クラクフ

1791年ポーランドが5月3日世界の第二国として憲法を発布するとき、国会議会議員の百人以上は、
エスコラピオスの学校の卒業生だった。
当時、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキポーランドの王がコナルスキ神父にSapere auso 
「サペレ・アウソ」、いわゆる「恐れず、勇気をもって、知恵を持つ人」という名誉称号を与えた。
コナルスキ神父はとても幅広い教育改革を目指した。残念なことに、18世紀の後半に、ロシア、プルシャ、
オーストリアにより、ポーランドが分割され国はなくなり、学校は閉鎖され、修道会は廃業させられ、
エスコラピオスの修道者たちは、シベリアに追放され、多くの方々が迫害にあった。

ポーランドの教皇ヨハネ・パウロ二世

1978年10月16日、ポーランドの大枢機卿カロル・ヴォイティワが
第264代目のローマ教皇に選出された。教皇としてヨハネ・パウロ二世という名前を選んだ。
教皇としてヨハネ・パウロ二世は、第2バチカン公会議の精神を引き継ぎ、新しい福音宣教を推進し、
青少年、家族、病者、女性、職業人など様々な立場の人にキリスト者としての自覚を促した。
冷戦末期において、世界平和と戦争反対への呼びかけ、国や民族、宗教を超えた対話を目指した教皇は、
平和の使者として積極的に日本を含めて、世界各国を歴訪し、多くの政治リーダー、諸宗教の指導者との
会見を持った。他宗教や文化との対話を呼びかけたことは宗教の枠を超えて現代世界全体に大きな
影響を与え、多くの信者・宗教関係者から尊敬された。

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写真11)教皇ヨハネ・パウロ二世

ヨハネ・パウロ二世が1979年、6月2日登位後、初めて、共産党独裁にあった祖国ポーランドを
訪問した。聖霊降臨、いわゆるペンテコステというカトリック教会の祝祭日に首都のワルシャワの
勝利広場で説教をし、「聖霊きてください、その土地の様子を変えてください」という言葉で終わった
聖霊 と は,神 の 活動 する 力 の こと です。「聖霊きてください、その土地の様子を変えてください」。
その言葉が大きな拍手で迎えられた。その説教と最後の言葉が、1979年、ポーランドの現代史の
転換期をもたらした。

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写真12)教皇ヨハネ・パウロ二世になったカロル・ヴォイテイワ司教の資料館、クラクフ(fot.Marian Hałasa)

共産党のプロパガンダによると、イエス様が死んで、宗教は時代遅れで、人を支える役割をしていないという
ことだった。それに対してヨハネ・パウロ二世のメッセージが、イエス様が復活し、私達に希望をもたらしたと
いうメッセージだった。教皇のメッセージを聞いた大勢の人がそれを把握し、教皇の言葉に同意し、感謝の
気持ちいっぱいで大きな拍手をした。ヨハネ・パウロ二世がそのように民主化活動の精神的支柱として大事な
役割を果たした。ヨハネ・パウロ二世が大学の先生をしていた。クラクフ大神学校、および、ルブリン
カトリック大学神学部にて倫理神学教授をしていた。学生との接触をとても大切にしていた。大学先生として、
司祭として若者と登山したりして、遠足に出かけたりして、授業の時だけではなくて、大学外でも若い人の
世話をしていた。

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写真13) 教皇ヨハネ・パウロ二世の銅像を囲む若者、ヴァドヴィツェ

1984年、ヨハネ・パウロ二世が、青年たちにローマへと集まるように呼びかけた。その後、毎年
「受難の主日(枝の主日)復活祭いわゆるイスター祭の一週間前の日曜日」が「世界青年の日」と定められ、
2~3年ごとに世界各地での世界大会が開催されるようになった。ワールドユースデーは、世界中の青年が
イエス・キリストにおける信仰を表すために、教皇と司教、司祭、カテキスタと共に1つの場所に集まる
国際的な大会である。

最初のワールドユースデーは、イタリアのローマで1984年4月に教皇に開催され、30万人の若者が
参加した。そのあとはアルゼンチン、スペイン、ポーランド、アメリカ、1995年はマニラで開催され、
そのとき5百万人の若者が集まった。世界で一番大勢の人が集まった集会だった。ヨハネ・パウロ二世が
1997年パリでワールドユースデーを開催したいと言ったとき、当時彼のバチカンの相談役を務めた司祭が、
止めた方がいいと答えた。フランスの若者は宗教をあまり大切にしないからである。教皇はそれでも、
ワールドユースデーをパリで開催したいと言った。皆が驚いたが、1997年パリで120万人の若者が
ヨハネ・パウロ二世を囲んで集まった。

ポーランドで開催されたワールドユースデー

2016年、7月26日から31日まで、ワールドユースデーがポーランドの古都クラクフで開催された。
テロのリスクへの警告がアメリカやフランスに発せられたにもかかわらず、世界の187ヶ国や地域から
青年カトリック信者が350万人も集まった。日本から200人以上の若い人が参加した。日本の司教5人を
含めて、世界各国の司教が900人ポーランドに来た。私はもう若者ではないが、ちょうどポーランドに
帰った時期だったので、二回フランシスコ教皇のお祈り会やミサに預かった。

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写真14)クラクフ、ワールドユースデーの広告

7月22日、日本からポーランドへ乗り継いで行ったが、ポーランド行きの飛行機は満員で、空港のパスポート
検査の方に、ワールドユースデーの参加者が毎日大勢来ると言われた。ワールドユースデーは、毎回集会の
テーマが決められて、2016年のテーマは:「あわれみ深い人々は、幸いである、その人たちはあわれみを
受ける」(マタイ5・7)マタイによる福音の言葉だった。クラクフに着いたら、自分の国の国旗を振りながら
市内を歩く世界各国から集まった若者たちを見て、世の中が混乱する中、カトリック教会が若者にアピールする
ことはたくさんあると再確認した。

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写真15)フランス国旗で体を包んだ若者

フランシスコ教皇は「世界青年の日」を創設した聖ヨハネ・パウロ2世に感謝し、民族・文化・言語の違いを
乗り越え、「イエスがわたしたちの間におられる」ことを祝うために集った若者たちを同教皇は天国から
見守っておられると話した。
7月28日は奇跡で知られている黒いマドンナのイコンが収蔵されるチェンストホヴァで、ポーランド宣教
1050年を記念と感謝するミサが教皇フランシスコに捧げられた。会場はポーランド人だけではなくて、
世界各国の参加者で埋まった。ワールドユースデーに参加する若者も多くて、とてもいい雰囲気だった。

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写真16)チェンストホヴァのヤスナ・グラ教会

7月29日夕、教皇フランシスコは、若者たちととり行われる十字架の道行きの祈りにも参加した。その祈りは
クラクフのブオニエの野外イベント場で行われました。会場が100万人以上の若者で埋まった。人が大勢
だったので、クラクフの旧市街からブオニエまで、一時間以上歩かなければならなかった。若い人たちが道を
埋まったので、バスとトラムが止まった。会場まで歩く若者が自分の国の国旗を振ったり、まとったりして元気を
出して、歌ったりして歩いていた。クラクフ市内にすごい人数が集まったため、順番を待たなければならない
時でも不満な顔をせず、文句言わず皆が辛抱づよく、順番を待つと見て感動した。街の雰囲気がとてもよくて、
町を警備する警察や軍隊がとても親切に人を指導した。

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写真17)クラクフ、ブオニエ、十字架の道行き

ブオニエの「いつくしみの道行き」のテーマで、参加者らはイエスのいつくしみの愛を黙想し、「旅人に宿を貸す」
「飢えた人々に食べ物を与える」「罪人に忠告する」「苦しむ人を慰める」などの、14のいつくしみの業に思いを
巡らせた。十字架の道行きの祈りの各留では、世界各地でいつくしみの業を行う様々なカトリック教会系団体や
修道会がビデオで紹介され、さらに、舞台で現代舞踏のパフォーマンスが行われた。

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写真18)クラクフを歩く若者

カトリック教会は世界で一番大きい慈善組織である。ポーランドだけで、カトリック教会が経営する
慈善組織が800位あり、300万人の人、貧しい人子供、身体障害者、ホームレスなどが慈善活動の
対象となっている。日本にもキリスト教の信者が少ないのに、キリスト教の慈善活動が大きい。
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写真19)シリアでの平和を呼びかけるポルトガルの若者

フランシスコ教皇がずいぶん前から私たちの目の前に第三世界大戦が展開していると何回も繰り返した。
お祈りのとき「わたしの愛する国、シリアのためにどうか祈ってください」というアレッポの女性の叫びを
深く受け止めた教皇は、苦しみや戦争を生きる若者たちの存在は、新聞記事の中の遠い世界の話ではないと
強調し、これらの人々は、一人ひとりが名前と顔と背景を持ち、わたしたちの間にいて、わたしたちに祈りを
求めていると話した。

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写真20)シリアのための祈り

若者の不安に答えて、教皇は説教の中に、「神はどこにいるのか。世界に悪があるのなら、神はどこにいるのか。
人々は飢え、渇き、家もなく、難民となって追われ、多くの無実の人が暴力やテロや戦争の犠牲となり、病気が
人生や愛情の絆をゆるがし、子どもたちが搾取されている世界で、神はどこにいると言えるのか」と問いた。
それに対するイエスの答えとして、「神は彼らの中にいるのです」と説いた。「イエスは彼らの中におられ、
彼らと共に苦しみ、彼ら一人ひとりのアイデンティティーを深く帯びておられます。イエスはこうして彼らと
一致され、ほとんど彼らと一体化されているのです」。ブオニエの祈りの時、世界中の若者がひとつになり、
二時間くらいひざまずいたり、黙想したりして、注意深く教皇の言葉を聞いていた。退屈する顔が見えなかった。
会場にいた人たちが教皇の話に集中し、興味深く聞いていた。若い人たちが指導を探しているとよく分かった。
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写真21) 教皇ヨハネ・パウロ二世について話す教皇フランシスコ、クラクフ

クラクフ市内は、世界各国から集まった若者たちが母国の旗や、フランシスコ教皇の顔の旗、バチカンの旗を
振って町の中を歩き、市内に点在する教会で熱心に祈り、教会の門の外では車座になってギターの伴奏で
母国の言葉で聖歌を歌い、ワルードユースデーを楽しんだ。7月31日、クラクフ郊外の「いつくしみの
キャンパス」で教皇フランシスコにとり行われた閉会ミサには、およそ200万人が参加した。教皇は
このミサで、イエスに信頼し、世界を変えようと呼びかけ、正義と平和に満ちた社会の構築に参加するよう、
若者たちを励ました。閉会前夜教皇は若者たちへの言葉で、安楽に何も考えずに生きることをやめ、
座っているソファから立ち上がって、自分の足跡を刻む生き方、兄弟愛の橋を架ける生き方を選ぶよう
訴えた。

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写真22)ブジェギ、ミサ

クラクフを歩いて、若者を見て感動した。町が世界各国から来た、若くて元気な人たちに溢れた。若者がそんなに
集まる集会を見たことがない。お互いのことが知らない人が一緒になって、仲良く、明るく付き合うことができる
と思わなかった。クラクフが人でいっぱいになって、道を簡単に渡ることができなくて、いろいろなところに
順番を待たなければならなかったにも関わらず、不満な声を聴いたことがないし、危険性を全く感じられなかった。
元気いっぱい、明るい若者が世の中にたくさんいると確認し安心した。夜、クラクフを歩くと歌を歌ったり、
舞台に立ってコンサートをしたり、話をして笑ったりする若い人たちの顔を見て、新聞で読むこと、テレビで
見るニュースと全く違う世界があると強く感じた。

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写真23)日本の若者、ブジエギ、ミサ

日本の参加者の感想が感じたことを一番よく表すと思う。
「僕はワードユースデーに来るまでは、この世の行く末は暗澹たるものだと、悲観的な視点でこの世界を見つめて
いたが、ワードユースデーから帰ってきた今、再び世界に希望を持っている。僕は今まで、世界に満ちている
無情さ、傲慢さ、冷酷さにしか目をむけていなかった。だが世界にはまだこんなに宝物があるではないか。世界は
まだ大丈夫だ!世界にはまだ希望がある!今の僕は声高にこう言える。だが、今は花が咲いていても、未来に
芽生えるであろう希望に水を与えるか殺すかは、すべて今の我々と、未来の人類の手にかかっているのだ。
世界はこれからもよりよい進化へ歩み続けなければならない。」(中西尚喜)
Dorota Hałasa ドロタ・ハワサ
Forum Polska 2016, Tokio 10.12.2016

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写真24)クラクフを歩く日本の若者





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by NaszDomJaponski | 2017-12-27 14:59 | Information | Comments(0)

Do jezuitów w Rzymie (1624)

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Czwartego grudnia (1623 r) wcześnie rano, urzędnicy przyszli do chrześcijan
przebywających w więzieniu w Kodenmacho, w Nihonbashi, aby na rozkaz sioguna
zaprowadzić ich na miejsce egzekucji. Najpierw uwolnili z dybów nogi o. Hieronima.
Założyli mu na szyję grubą linę i związali mu z tyłu ręce. O. Franciszka Galvesa i
innych chrześcijan związali w podobny sposób linami, a przed wyruszeniem na miejsce
kaźni policzyli wszystkich. Było 50 osób. Podzielono ich na trzy grupy.
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Na czele poszczególnych grup postawiono o. Hieronima, o. Galvesa i Jana Haramondo,
którym powieszono na torsie tabliczki, z wypisanymi dużymi znakami imionami i
nazwiskami. Wszystkich trzech wsadzono na konie. Szymon, Enpo, Takeya i pozostali
wierni szli za nimi pieszo. Kolumna była z przodu i z tyłu, a także po bokach
otoczona urzędnikami, którzy pilnowali, aby ludzie nie przybliżali się do skazańców.
Posuwali się oni do przodu powiewając chorągwiami, jakby szli w marszu tryumfalnym.

Skazańcy zostali przeprowadzenie przez Nihonbashi, Muromachi, Kyobashi, Shinbashi
i przybyli na obrzeża Edo do Fuda-no tsuji. Było to miejsce, które graniczyło z
traktem Tokaido (prowadzącym z Edo do Kioto), było tam więc dużo ludzi, a w
miejscu egzekucji, na wzniesieniu, ustawionych było 50 pali.

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Na miejscu egzekucji zgromadziło się dużo gapiów. Również pobliskie wzgórza pełne
były ludzi, którzy chcieli zobaczyć co się będzie działo. W tłumie byli też daimyo
(panowie feudalni), którzy przybyli właśnie ze swoich posiadłości do Edo.
47 wiernych zostało przywiązanych do pali, pod którymi rozpalono ogień. Kazano
dwóm księżom i Haramondo patrzeć jak cierpią i giną w ogniu. Kiedy ogień zgasł,
a z nim życia 47 ludzi, wszyscy trzej zostali zdjęci z koni i przywiązani do
pozostałych pali. Kiedy podpalono wiązki drewna złożone pod nimi, odważni,
chrześcijańscy wojownicy rozmawali ze sobą i dodawali sobie sił. O. Hieronim
zwrócił się do Haramondo i powiedział: „W porównaniu z wiecznością w niebie,
jakże krótkie jest cierpienie, któremu jesteśmy poddawani”. Z płomieni ognia,
który ich ogarnął, widać było jak odważnie, ci dzielni słudzy, znosili cierpienie.
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O. Hieronim zwrócił się w kierunku ulic Edo i odmówił krótką modlitwę, po czym
trwając w tej samej pozycji, chciał coś powiedzieć do zebranych ludzi. Przekonywał
ich z pasją, ale nagle pal, do którego był przywiązany, przepalił się i zwalił, a on
sam upadł, ukląkł i oddał duszę Panu. Jan Haramondo obrócił tors wokół płomieni,
tak jakby chciał objąć coś niezwykłego. Jego postawa stała się dla ludzi znakiem
wielkiej odwagi. Do końca trwał w pozycji stojącej nie poruszając ciałem, ale w
końcu razem z palem upadł do przodu na ziemię, a rozłożywszy ręce i nogi,
wyzionął ducha. Na końcu o. Garvel, nie poddając się cierpieniu, przywiązany
do pala, oddał duszę wyprostowany, w pozycji stojącej.

(Do Jana Rodriguesa, generała o. jezuitów, 1624, Raport z Japonii)
Z współczesnego japońskiego przełożyła Dorota Hałasa

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by NaszDomJaponski | 2017-12-20 14:58 | Japanese Christians | Comments(0)

“Międzynarodowy” ingres nowego arcybiskupa Tokio

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W wypełnionej po brzegi tokijskiej katedrze NMP odbył się 16 grudnia ingres arcybiskupa Tokio Tarcisio Isao Kikuchi. Urodzony w 1958 r. w Iwate w północno-wschodniej Japonii należy on do zgromadzenia werbistów. W latach 1986-1999 pracował na misjach w Ghanie, a następnie już jako biskup japońskiej diecezji Niigata, kierował Caritas Japonia oraz Caritas Azja.

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W związku z tą jego międzynarodową działalnością na jego ingres przyjechało wielu gości z zagranicy, szczególnie z Ghany i Konga. Ponadto z Kolonii – siostrzanej archidiecezji, z którą Kościół w Tokio utrzymuje bliskie kontakty - przybył bp Dominik Schwaderlapp, który odczytał gratulacyjny list od kard. Rainera Woelkiego. Przybyło też wielu duchownych i świeckich z diecezji położonych na północy Japonii: Niigata, której abp Kikuchi był ordynariuszem od 2004 r., oraz Sendai, w której się urodził.W swoim pierwszym wystąpieniu nowy arcybiskup podziękował dotychczasowemu metropolicie Tokio abp. Peter Takeo Okada za wysiłek, jaki włożył w kierowanie nie tylko archidiecezją tokijską, ale i diecezją w Saitamie, która ciągle czeka na nowego biskupa. Nawiązując do swojej dotychczasowej działalności misyjnej, stwierdził, że Ewangelia „jest dla wszystkich kultur i dla wszystkich ludzi, nie wykluczając żadnego z nich”.Przed końcowym błogosławieństwem odbył się mały happening, tłumaczony na japoński przez abp. Kikuchiego. Przybyły z Akry abp Charles Palmer-Buckle w gronie kilku innych tamtejszych duchownych i wiernych zbliżył się do arcybiskupa Tokio i najpierw zażartował: „Przybyliśmy tak licznie tutaj, aby porwać Cię z powrotem do Ghany”, po czym zgodnie z tamtejszym zwyczajem żona ambasadora Ghany - w geście błogosławieństwa - owinęła wokół szyi nowego arcybiskupa pochodzące ze tego kraju korale. Następnie zaś cała grupa zaśpiewała mu specjalnie wybraną na tę okazję afrykańską pieśń religijną. o.pj (KAI Tokio) / Tokio
17.12.2017

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by NaszDomJaponski | 2017-12-17 21:29 | Comments(0)

Obchody 100 lecia Rycerstwa Niepokalanej w Tokio

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Franciszkanie konwentualni obchodzili 100-letnią rocznicę powstania Rycerstwa Niepokalanej
w wybudowanym przez polskich franciszkanów kościele Wniebowzięcia Najświęszej Marii
Panny w Akabane, w Tokio. Poprzedzoną Różańcem uroczystą Mszę w święto Niepokalanego
Poczęcia Najświętszej Maryi Panny koncelebrowało ośmiu księży.

Prowincjał o. franciszkanów konwentualnych o. Serafim Akahiko Takeuchi przypomniał,
że Rycerstwo Niepokalanej założone zostało przez św. Maksymiliana Kolbe dla
przeciwdziałania prowadzącej walkę z Kościołem i rosnącej w siłę masonerii.
Przypomniał heroiczną postać św. Maksymiliana, który w celi śmierci niemieckiego
obozu koncentracyjnego w Auschwitz dobrowolnie oddał życie za skazanego na
śmierć głodową ojca dwójki dzieci. W mierzącej ok. 9 m kw. celi, gdzie ludzie jęcząc
konali z głodu i wyczerpania o. Kolbe okazał bezgraniczną miłość, do końca niósł
nadzieję i pokazał jak zachować godność w nieludzkich warunkach.
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Zrobił to dzięki łasce całkowitego zawierzenia się Niepokalanemu Sercu Maryi.
Prowincjał zacytował słowa o. Maksymiliana pochodzące z listu do o. Antonio
Vivody (12.04.33): "Pragniemy do tego stopnia należeć do Niepokalanej, by nie
pozostało w nas nic, co by nie było Nią, byśmy jakby unicestwili się w Niej, byśmy
przemienili się w Nią, przeistoczyli się w Nią, aby tylko Ona pozostała. - Byśmy tak
bardzo byli Jej, jak Ona jest Boga. - Ona należy do Boga aż do tego stopnia, że stała
się Jego Matką, a my chcemy stać się matką, która zrodzi we wszystkich sercach,
które istnieją i które istnieć będą - Niepokalaną". Prowincjał podkreślił, że Święto
Niepokalanego Poczęcia jest jednym z najważniejszych świąt dla franciszkanów
konwentualnych w Tokio.

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Po Mszy, w której uczestniczyło ok. 200 osób, odbył się wykład: „O 100-nej rocznicy
założenia Rycerstwa Niepokalanej-aby przez Niepokalaną żyć w sercu Jezusa”, mówiący
o głównych założeniach Rycerstwa Niepokalanej. Poprowadził go sekretarz prowincji
franciszkańskiej o. Łukasz Shinichiro Tanizaki. W wydrukowanej specjalnie z tej okazji
ulotce przypomniano słowa św. Maksymiliana Kolbe, że Rycerstwo Niepokalanej służy
temu, aby za pośrednictwem Matki Bożej Niepokalanej doprowadzić wszystkich ludzi do
bezgranicznej miłości Serca Jezusa. Prelegent mówił o potrzebie: poszanowania dla
wszystkich ludzi, współczucia w oparciu o przykład Maryi, czułej Matki, o potrzebie
uniżenia się w miłości na przykładzie sługi Bożej, współpracownicy br. Zenona
Żebrowskiego, Marii Satoko Kitahary, o poszanowaniu dla woli Boga Ojca i gotowości
do podejmowania trudności, o potrzebie dzielenia się z innymi życiem, nadzieją i radością
oraz pokojem i pojednaniem. O. Nishizaki zaapelował, aby każdy słuchacz podzielił się
z kimś innym choćby małą cząstką tego o czym była mowa.

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Pracujący 40 lat przy wydawaniu japońskiego „Rycerza Niepokalanej” o. Ikuo Mizuura,
który pamięta polksich franciszkanów, zwrócił się do uczestników spotkania z prośbą o
zaprenumerowanie tego katolickiego miesięcznika, założonego przez św. Maksymiliana
Kolbe. Podkreślił, że polski święty zaczął wydawać „Rycerza Niepokalanej” po japońsku,
zaledwie miesiąc po przybyciu do Nagasaki. Zwrócił uwagę na to, że polscy fanciszkanie
bardzo ciężko pracowali przy ręcznym składaniu „Rycerza” i od pracy krwawiły im palce.
„Rycerz Niepokalanej” z krótką przerwą, w czasie II wojny światowej, wydawany jest w
Japonii do dziś od czasu przybycia o. Maksymiliana. Rekordowy nakład pisma wynosił
65. tys. egzemplarzy. Obecnie 32 stronicowy miesięcznik ma nakład niecałych
10 tys. egz. i boryka się z problemami finansowymi. Na koniec spotkania ok. 100
uczestników odśpiewało japońską wesję pieśni „Po górach, dolinach”.

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Każdy uczestnik Mszy oraz wykładu dostał na pamiątkę figurkę św. Maksymiliana Kolbe
oraz kalendarz Niepokalanej Matki Boskiej ze zdjęciami znanych obrazów
przedstawiających Niepokalaną oraz sentencjami na każdy dzień miesiąca.

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Kościół Wniebowzięcia Najświętszej Marii Panny wybudowany zostal w 1947 roku
pod kierunkiem polskiego franciszkanina o. Samuela Rosenbaigera, który w czasie
II wojny światowej pracował w USA, aby utrzymać założoną przez św. Maksymiliana
Kolbe przed wojną, misję w Japonii. Oprócz wybudowanego przed wojną z funduszy
z Niepokalanowa kościoła i klasztoru w Nagasaki, polscy franciszkanie wybudowali
po wojnie klasztor i kościół w Tokio. Nad wejściem do kościoła widnieje figurka Matki
Boskiej przywiezona z Niepokalanowa. Kościół i klasztor w Tokio wybudowane zostały
dzięki datkom wiernych z USA. W latach 70. Przy kościele wybudowane zostało
funkcjonujęce nadal przedszkole Rycerstwa Niepokalanej.

Dorota Hałasa. Tokio 8.12.17


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by NaszDomJaponski | 2017-12-08 22:38 | Japanese Christians | Comments(0)