教皇ヨハネ・パウロ2世と日本



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教皇ヨハネ・パウロ2世本名はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ

Karol JózefWojtyła)ポーランド出身のローマ教皇(在位:1978年10月16日-

200542日)、カトリック教会の聖人は1920年、ポーランドの古都クラクフの

近郊にあるヴァドヴィツェに生まれた。

父カロルは退役軍人だった。カロルは8歳で母を失い、11歳で兄を、さらに20歳で

父を失った。1938年クラクフ大学の文学部で勉強をし始めた。19399

ナチドイツとソ連がポーランドを攻撃し、ポーランドを占領したとき時19歳だった。

カロルが学んでいた大学の教授たちは射殺され、大学も閉鎖された。ナチスドイツは

ポーランド人が公式に教育を受けることを禁じた。父とクラクフで暮らしていた

カロルは鉱山で働き、地下運動によって創設された大学で勉強を続けた。

同時に地下演劇の俳優、脚本家として活動した。周りにいる友や神父などは、

ポーランドをドイツの支配から解放する地下運動にかかわっていた。

彼らの多くはドイツ人に捕えられ、拷問されて、殺された。


カロル・ヴォイティワは、20世紀の全体主義の一形態であるナチドイツの支配を

体験し第二次大戦中の1942年に神父になることを決心した。194559日に

第二次大戦が公式にドイツの降伏で終わると、ポーランドは20世紀の

第二の全体主義、つまりコミュニズムの支配下に入った。カロルはこれも体験した。

二つの全体主義の共通点は、人間が神様の立場になって、世界を支配しようと

思っていることである。


共産圏の政権がモスクワの指示に従って多くのポーランドの神父を逮捕し、

拷問し、殺し、ポーランドでの神学校の運営を禁じたため、カロルは地下神学校に

入り、1946111日司祭に叙階された。大学時代から神学と哲学で優秀だった

カロルは、二週間後司教の推薦でローマ教皇庁立アンジェリクム神学大学に送られ、

そこで学んだ。195333歳の時博士となったカロルはルブリン

カトリックカトリック大学と戦前勉強をしたクラクフヤギエウオ大学で倫理を

教えることになった。38歳の若さでローマ教皇の補佐司教に、43歳で司教に

任じられた。196764ローマ教皇は47歳のカロルを枢機卿に新任した。



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19781016日教皇ヨハネ・パウロ一世の死去に伴って、カロル・ヴォイティワが

58歳で新教皇に選出された。




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パウロ6世は「旅する教皇」と言われたが、教皇ヨハネ・パウロ2世は
「パウロ6世を遥か凌ぐスケールで全世界を訪問し、「空飛ぶ教皇それとも
空飛ぶ聖座)と呼ばれるようになった。教皇はよくパパといわれた。パパは
イタリア語で教皇と父という意味である。教皇ヨハネ・パウロ二世が104
海外訪問に行った。国連に属している193か国の中で100ヶ国以上を
訪問したので、世界宣教師教皇だったと言ってもいいと思う。

私は個人的にヨハネ・パウロ二世とちょっとした関係がある。

父がルブリンカトリック大学で美術史を勉強した後、当大学の資料室に努めて、

写真家としても務めていた。カトリック大学の顧客と催事の記録写真を撮って、

当時大司教および枢機卿だったKarol Wojtylaの写真もよく撮った。


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例えば1967612日カロル・ヴォイティワが枢機卿として初めてKUL

訪問した時に、私の父が撮った写真があり、これはKULが出版した本の表紙に

なり、現在クラクフ大司教区資料館の代表写真となっており、今ではとても

有名な写真として知られている。



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教皇ヨハネ・パウロ二世の各国の訪問に共通点があった。

第一は教皇が飛行機から降りると膝づいて、その国の土地に接吻した。そのように
訪問する国の人と文化を尊敬すると表していた。

第二教皇が訪問先の言語ですくなくとも簡単な演説をするということだった。

教皇ヨハネ・パウロ二世は、1981年2月23日から26日平和の巡礼者として
教皇として初めて日本を訪問し、東京、広島、長崎を訪れた。当時日本での滞在は
教皇の海外訪問の中で一番長い滞在となった。

教皇ヨハネ・パウロ二世の日本の訪問の特徴がいくつかあった。

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1)日本のカトリック信者がとても少ないこと、日本語はとても難しい言葉である
ということにも関わらず教皇さまは日本で簡単な演説だけではなくミサと説教や
メッセージも13回日本語でなさった。

なぜヨハネ・パウロ二世が日本語でミサをし、話しをしようと考えられたか?
教皇の日本語の教師をしたコンベンツアル・フランシスコ会のフィデリス
西山達也神父はその質問されインタユービューに教皇の言葉を引用して答えた。
後楽園ドームで日本の若者にもその質問された教皇は同じように答えた:

日本人、アジアの人々はキリスト教、カトリックは西洋のものと思っている
人々が多い。自分たちとは関係がなく西洋のものだと思っています。しかし、
そうではないのです。カトリックは言葉どおり、世界的なものだということを
わかってほしい。

それに日本を訪問する以上、日本語を理解したい。言葉を理解することは、
その国を理解することにつながります。だから、あえて私は学ぶのです」。

バチカン放送に努めた西山神父が198012月の始めさっそく教皇に呼び出され、
言われた:「今日はどんな日かご存知でしょうか?まさに摂理的な日です。

今日123日は、日本に初めてキリスト教をもたらした聖フランシスコ・ザビエルの
祝日なのです。だから今日から日本語の勉強をスタートしようと私自身決めたんです」。

日本語の勉強は次の日124日から始めた。教皇は毎日ものすごいスケジュールを
こなされていて、ヒマがなく、勉強は夕食をしながら食堂で行われた。

西山神父の話によると教皇さまは5分~10分で食事をすまされ、勉強に入った。
まず祈り、そして食事を一口食べると、すぐに食器を脇に置いて、勉強を始めた。

当初の目標は、『コンニチハ』とか『アリガトウ』などのあいさつを覚えたいと
いうことでしたが、10日間もしないうちに、パパ様が『ミサを日本語でやろう』
と言った。教皇は西山神父に作ってもらったミサ典書を使って勉強をした。
ただ読めるというのではなく、意味をつかみたい。それも一つ一つの意味を
理解したい。そのために日本語の下に、英語かイタリア語で意味を記してほしい
と西山神父に言った。

ヨハネ・パウロ二世は約1カ月近く、毎日、特製のミサ典礼書をあちこちに
携えて、勉強に励みました。毎朝、自分で日本語のミサをささげるようになった。


最初に人のために日本語のミサをローマでしたのは1981113日朝の7時でした。
日本に行く一か月弱だった。ローマに住む日本人信者をミサに呼んできなさい」と
西山神父に言った。ローマにいる日本人のシスターと、日本に永く滞在していた
外国人シスターをミサに招くように言われ、シスター方とともに日本語のミサを
捧げた。出席したシスター方皆びっくりした。口々にこんなにうまいとは
思わなかったと言った。

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1981113日から日本の訪問まで教皇は毎日、日本語でミサを捧げた。
勉強熱心で飛行機の中などでも学習した13回日本語でミサをささげたり、
説教をしたりした。

4日間の日本の司牧訪問を終えたら西山神父は、日本語学習は「これで終わった」と
思ったが、教皇に呼ばれた。毎週水曜日、バチカンのパウロ6世ホールで行われる
一般謁見のとき日本語であいさつをすると言った。

13年間、毎週水曜日、一般謁見の15分前に西山神父は日本語のあいさつを
用意して教皇様を待ち、その後、10分ほど2人で日本語の練習を行い、
スピーチを準備することになった。



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教皇は、一般謁見で世界共通5カ国語であいさつをしたが、集まった巡礼者6千人の
中で、日本人がたとえ10人ほどだったとしても、必ず日本語でスピーチをした。
日本の巡礼者だけが特別扱いの状態になった。

2)教皇は「平和の巡礼者」として来日した。

日本到着のご挨拶のとき教皇は:「わたしは平和の巡礼者として、皆さんへの
友情と尊敬のメッセージを持ってこの日本に来ました。わたしの願いは、日本の
皆さん一人一人にわたしの心からなる尊敬と愛をお伝えすることです。」最後に:
神の特別な祝福が日本の上に豊かにありますように。」と言った。



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教皇は日本の訪問で、「過去を振り返ることは未来に対する責任を負うことです」
との言葉を繰り返し、平和と核廃絶のメッセージ、「平和アピール」を全世界に
発信した。


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戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。」と
広島平和記念公園慰霊碑前で読み上げた「平和アピール」の冒頭に言った。

「各国の元首、政府首脳、政治・経済上の指導者に次のように申します。
正義のもとでの平和を誓おうではありませんか。
今、この時点で、紛争解決の手段としての戦争は、許されるべきではないという
かた  い決意をしようではありませんか。
人類同胞に向って、軍備縮小とすべての核兵器の破棄とを約束しようでは
ありませんか。暴力と憎しみにかえて、信頼と思いやりとを持とうでは
ありませんか。


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過去の過ち、暴力と破壊とに満ちた過去の過ちを、繰り返してはなりません。
険しく困難ではありますが、平和への道を歩もうではありませんか。
その道こそが、人間の尊厳を尊厳たらしめるものであり、人間の運命を
全うさせるものであります。平和への道のみが、平等、正義、隣人愛を
遠くの夢ではなく、現実のものとする道なのです。」

「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです。」と教皇は
何回も繰り返した。

3)教皇ヨハネ・パウロ二世の日本訪問の主な目的は日本の殉教者に尊敬を
表すことだった。ヨハネ・パウロ二世がマニラで16人の殉教者を列福してから
日本に来た。16人の中に9人が日本人でだった。長崎で殉教者のミサの説教に
教皇は次のように言った:

「マタイ福音書のことばをきいたいま、昔のキリスト信者たちが「聖なる丘」
または「殉教者の丘」と呼びならした、この近くの「西坂の丘」にイエズスと
共にのぼることは、私たちにとってたのしいこととなりました。私たちは
この丘を、長崎の「至福の丘」とも呼ぶことができるでしょう。(省略)


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新しい福者たちは他のすべての殉教者と同様、人間的レベルの義を完成する
福音の義のために苦しみをうけたので、イエズスによって幸いな者と宣言された
(マタイ5・10参照)人たちです。この義こそ、天におられる父の完全に倣おうと
望む人々に規範を与えるあの「山上の説教」で、キリストがお説きになった
福音の義です。彼らは神の前に正しい人として死ぬ前に、心貧しく、柔和で
悲しみに堪え、義に飢えかわいていた。彼らはあわれみ深く心の清い人、
平和をもたらす人だったのです。」

殉教地西坂と日本二十六聖人記念館を訪問した教皇は次のように言った:

「きょう、私は巡礼者としてここに参りました。二十六聖殉教者とそのあとに
続いた多くの殉教者、特にこの度列福されたキリストのお恵みの英雄たちの
生涯と死をたたえ、神に感謝をささげるためここに参りました。(省略)

私は世界の各地で、神に対する信仰のため、救い主キリストヘの忠実と
教会への忠誠のために苦しみを甘受している多くの人々のために、神に感謝を
ささげます。過去・現在・未来いずれの世代もイエズス・キリストの偉大な
力による輝かしい模範を生みだし、すべての人に導きと励みを与えているのです。
きょう、私はこの殉教者の丘で、愛がこの世で最高の価値をもつことを、
高らかに宣言したいと思います。」



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教皇は16世紀の終わりに始まった迫害の時250年間信仰を保持し、ずっと
教皇の訪問を待ち望んでいた日本の信者についてそのように言った:

「私は巡礼者として長崎に来たのです。ここで、更にそれ以前二世紀に
わたって、ひそかに殉教者の信仰を守りつづけた先祖をもつ100年前の
信者たちは、福音の力に支えられてまことを守り通したのでした。神の恵みに
より、当時のキリスト信者はロザリオの玄義を用いて福音の黙想を行なっており、
また遠くにパパと呼ばれる人がいることを知っていました。きょうそのパパは
長崎の信者の言い伝えに敬意を表し、その子孫たちに直接、イエズス・キリストの
心において彼らを愛していると語りかけるためにやって来たのです。」

4)教皇の日本訪問の第二目的はポーランドの宣教師マクシミリアン・
マリア・コリべ神父の活動の場所と結果を見ることだった。ちょうど
コルベ神父の列聖式前の時だった。


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1894年、ポーランドの織物職人の息子として生まれたコルベ神父は13歳のとき、
フランシスコ修道会の神学校に入った。数学の才能に恵まれ、数学の
授業を担当した教師が「こんな才能をもっているのに司祭になるのは惜しい」と
嘆いた。この頃に彼はロケットで月に行けると考え、ロケットの図面を描いた。
コルベ神父は色な才能に恵められたので、ローマ大学の留学生に選ばれて、
ローマで哲学、神学数学および物理学を学んで、グレゴリアン大学で哲学の
博士号を、神学の博士号を取得した。


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コルベ神父はローマで1917年1016日に、6人の志願者と共に神学校聖堂の
汚れなき聖母の祭壇の前で聖母へ奉献を行い、「汚れなき聖母の騎士会」を
創立して、それを他の国に普及しようと思った。1927年はニエポカラノフ修道院
(無原罪の聖母の騎士修道院)を創立し、『無原罪の聖母の騎士』という
カトリック雑誌等の出版による宣教に力を入れた当時ローマで神学学生だった
里脇 浅次郎枢機卿と東洋布教について相談したところ、日本へ布教する
ことを薦められた。

1930424日、ゼノ修道士とヒラリオ修道士と長崎に上陸した。3人の
宣教師は、大浦天主堂の近くに家を借り、早速文書伝道の作業にとりかかり、
一か月後524日、日本活字による「聖母の騎士」第1号を1万部発行した。
そのようにポーランド人の宣教師達が、日本語による聖母の騎士誌を
編集発行し始めた。

1931年コルベ神父は、町はずれの山の斜面に修道院とルルドを開き、
「無原罪の聖母の園」と名づけ、フランシスカン的な清貧生活をしながら、
聖母の騎士誌の発行と学園教育に専念した。(現在、同敷地内に
教育施設として聖母の騎士高等学校と幼稚園がある。)

1936年コンヴェンツアルフランシスコ会修道院を長崎で創設した
コルベ神父はニエポカラノフ修道院院長に選ばれたため、長崎に
後継者を置いて故国ポーランドに帰国した。3年後ドイツとソ連が
ポーランドを侵攻し、ポーランド領土を占領した。

1941年コルベ神父は4人の神父と共に発行していた『無原罪の聖母の騎士』や
日刊紙がナチスに対して批判的なものであるという容疑でドイツ人に逮捕され、
第二次大戦中ナチドイツにポーランドで作られたアウシュビツ強制収容所に
送られた。7月末、収容所から脱走者が出たことで、罰として無作為に
選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。餓死刑に呼ばれた、
フランチシェク・ガイオヴニチェクというポーランド人軍曹が
「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。そこにいたコルベ神父は
「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と
申し出た。責任者であったルドルフ・ヘスは、この申し出を許可した。
コルベ神父と9人の収容人が地下牢の餓死室に押し込められ、
神父は二週間後814日まだ生きていたから、ドイツの兵士にフェノールを
注射されて殺害された。


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第二次大戦のナチドイツの全体主義とソ連の共産主義を体験した
教皇ヨハネ・パウロ二世が長崎でコルベ神父が創立した本河内修道院を
訪れて次のように言った:


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私の同国人、マキシミリアン・コルベ神父の創立になるこの修道院を
訪問することは、前から私の特別の望みでした。きょう、私は午後の日程を、
数世紀前、多くのキリスト信者がキリストを証した、あの殉教者の丘の訪問で
始めましたが、ここで私たちはキリストがキリスト信者の特徴として
提示なさったあの隣人愛を、ためらうことなく証した現代の
殉教者福者マキシミリアンのことを偲んでおります。彼は
アウシュヴィツの収容所で、結婚して二児の父である一人の友の生命を
救うために自分の生命をささげたのでした。
殉教者とコルベ神父の間には、ある種のつながりがあります。
このつながりというのは、彼らが福音のメッセージを証しようといつでも
準備をととのえているということです。

私は、今日ここで見出したもう一つのつながり、福者マキシミリアンの崇高な
犠牲と、彼の長崎での宣教師としての活動との間のつながりを皆さんに
指摘したいと思います。彼を日本に赴かせ、そのあと彼を餓死刑の
地下室まで導いたものは、同じ信仰の確信、キリストおよび福音に対する
同じ全面的献身ではなかったでしょうか。彼の生涯には分裂も矛盾も転向もなく、
ただ異なる状況の下における同じ愛の表現があっただけなのです。」

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5)宣教師活動の重要性

東京大聖堂で司祭修道者へのメッセージにヨハネ・パウロ二世が宣教師活動の
重要性を強調し次のように言った:「ここにおられるすべての司祭、
修道者のかたがたにわたしの愛と尊敬を表わすにあたって、宣教師のかたがたが
日本の教会にされた貢献に対して、特に感謝の言葉をつけ加えたいと思います。」

教皇は東京大聖堂のわきにあるカトリックセンターで日本で50年間宣教師をし、
社会福祉に尽くしてきた84歳のゼノン・Zebrowski修道士と対面した。
ゼノ修道士は1930年マクシミリアン・コルベ神父と来日し、最初から
コルベ神父が指導する宣教士の一人だった。コルベ神父の任命と教え、
フランシスコ会の任命をよく認識した上、日本で宣教活動をし、戦後直
後孤児や浮浪児の援助活動をした。ゼノ修道士の恩師であったコルベ神父の
理念、フランシスコ会の理念なしにゼノ修道士の活動の分析が
不可能だ。ヨハネ・パウロ二世が日本で献身的な活動を続けたゼノ修道士と
会うことをしきりに望み、もしゼノ修道士は体の具合が悪くて都心から
来られない場合は清瀬市の入院先まで、行きたいと言いった。教皇は
車いすに座ったゼノ修道士の手を撫でてポーランド語で「パパですよ。
ポーランドのパパです。」「いつ日本に来たのか?
コルベ神父と一緒に来たのか?」と尋ねると宣教師の印である白いひげを
したゼノ修道士は「パパ、パパ」と泣きながら繰り返し、興奮のために
返事ができなかった。


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)教皇が各場所で聖職者、司祭、修道者に会い、浦上天主堂で新司祭を
叙階し、彼らのために祈った。司祭叙階式のごミサの時日本キリスト教の
悲劇的な歴史と使徒発見に触れ、家族が果たしている大事な役割について話した:

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私は深い感動をもって、その昔、ここ長崎に着いた宣教師と数人の
信者たちとの出会いを思い出しています。その信者たちは彼がカトリックの
司祭であることを確かめてから、「私たちは長い長い間、あなたたちの来るの
を待っていました」といいました。信者たちは二百年以上も一人の神父も
持たず、教会堂もなく、公けの礼拝もなしに過ごしてきたのです。
こんな多くの不利な条件にもかかわらず、キリスト教の信仰は
消えてしまいませんでした。家庭の中で信仰は代々受け継がれてきたのです。
こうしてみると、キリスト教的家庭がキリスト者たるものの召出しに
とってどんなに大切かが分かります。」


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7)パパが東京の武道館で若者と身体障碍者に会った。
車いすに座っている人を一人一人に挨拶し、頭を撫でた。教皇は日本の若者に
人生の目的、希望、愛、平和や未来などについて話した。


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「愛する皆さん、皆さんは素晴しく進歩した技術社会の中に住んでいます。
皆さんは、生活を楽にし、面白く、また楽しくしてくれるものに囲まれています。
しかし、進歩はそれだけで人間の欲求を満たしてくれるわけではありません。
皆さんの心に、平和をもたらすものでもありません。むしろ、現代の進歩に
伴う物質主義や、楽な生活や自己中心的な生き方が、いつの間にか、皆さんの
生活の中に入りこんできて、本当に満足を与える、道徳的、精神的価値を
もみ消してしまう危険があります。
(省略)愛する日本の青少年の皆さん、私は皆さんに、心からの信頼をこめて
訴えたいのです! どんなエゴイズムの誘惑にも負けないでください!して、精神的なものと、
この世界に大きく心を開いてくださしい! 世界中の若者たちと手をとりあって、明日の
世界を築いてください! そうです、愛する日本の青少年の皆さん! 神の助けのもとに、
未来は皆さんの手の中にあるのです。未来は、皆さんのものなのです。」と教皇は
若者に訴えた。

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8)教皇が日本でカトリック信者と聖職者だけではなく多くの人たちに会った。

東京で聖職者の他、在日ポーランド人、部落解放同盟の代表者、日本国民を
代表する天皇陛下や首相に会った。他のキリスト教派とのエキュメニカルの
集いと諸宗教代表者との集いのとき違いにも関わらず同じ方向を目指すように
訴えた

在日外交官に自分の国と、全人類によく奉仕してくださることになるように
お願いした。広島の平和記念館講堂で報道関係の人にあって次のような
メッセージを残した。

「皆様は現代社会の中ではまさに大きく計り知れない力を手中しています。
しかし、この力は民衆に属するものであることを忘れてはなりません。
神から造られたすべての物と同様、この力は普遍的な目的を持ち、
あらゆる人の善に役立つものです。したがって、皆様は民衆の力の
管理者であり、かれらのしあわせへの奉仕者です。それは実に偉大で
輝かしい任務だと言えます。しかし同時に、正しい姿勢と、
絶え間ない献身、民衆に対して責任を明らかにすることが求められています。
私は、皆様が民衆の幸福のため、社会の改善のため、人類家族の
一致促進のため、献身的努力を続けられますようお願いいたします。」


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9)教皇が広島の国連大学で「技術、社会、そして平和」というテーマで特別講演を
した。



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私は198062日のユネスコにおける演説で、人類文明のこの基本的側面を
明らかにしようとしました。「文化は人間の『実存』、『存在』の具体的形態で
あります…文化とは、それを通じて人間が、人間として、より人間的になり、
より人間的で『あり』、『存在』への接近をより確実にするものであります。
人が何であるかと、何を持っているかとの基本的な差異、存在と所有との
基本的な差異も、その基礎をここに見出すのであります…人が
『所有するもの』はすべて文化にとって重要であり、文化を創造する一つの
要因でありますが、ただしそれは、人がその『所有するもの』を
通じて、同時に人問としてより全面的に『存在』し、その実存の全次元に
おいて、その人間性を特徴づけるすべてにおいて、より全面的に人間となる
限りにおいてのみ言えることであります。」この文化の概念は、
人間を肉体と精神、個人と社会、理性的存在と愛によって高められた存在、
それぞれ両面からとらえた、全人的人間観に基づくものであります。
「そうです!人間の将来は文化にかかっております!そうです!
世界平和は精神の優位にかかっております!そうです!人類の平和な未来は
愛にかかっております!(同演説より)

「核兵器による絶滅の危険にさらされた、この惑星上における我々の未来は、
ある一つの要素に掛かっております。それは、人類は道徳的転換を
実行しなければならないということであります。歴史の現時点においては、
すべての善意の男女を全面的に動員することが必要とされます。人類は
大きな前向きの一歩を、文明と英知における前向きの一歩を進めることを
要求されています。文明の欠如、人間の真の諸価値について無知である
ことは、人間性破壊の危険をはらんでおります。我々はより賢明に
ならなければなりません。」


私たちは、技術に対する倫理の優位、事物に対する人間の優位、物質に
対する精神の優位を確信しなければなりません(『人間の救済者』、16参照)
科学が良心と同盟を結べば、人間の大義にかなうことになります。科学に
携わる人は、『人間は世界を超越し、神は人間を超越するという意識』
(法王庁科学アカデミーにおける演説、19791110日、第4)を持ち続ければ、
人間性に対して真に貢献することになります。」

10)長崎で時間が大幅に超過して、雪が降り続けたにも関わらず、教皇は
予定変更をしないで「あそこだけどうしても行っておかねばなりません」と
言って、訪れたところがある。恵の丘長崎原爆ホームです。ホールに
集まった500人の信者の中に原爆被災者が約100人いた。

私はきょう、あの忘れ得ない劫火の目にうけた破壊のしるしを今なお
お身に負っている皆さんに、深い感動をこめて挨拶いたします。皆さんが
きょうまで堪えてきた苦悩は、この地球に住むすべての人の心のいたみと
なっています。皆さんの生きざまそのものが、総ての善意の人に向けられた
最も説得力のあるアピール ― 戦争反対、平和推進のため最も説得力の
あるアピールなのです。」

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「私はまた皆さんのため、最善のお世話をしようと努めている医師、看護婦
及びその他の従業員を大きく評価していることを特に申上げたいと思います。
この方々に敬意を表するとともに、今後とも治療と手助けの尊い仕事を
続けていくよう激励いたします。また、ここでの奉仕を通して
キリスト教的愛の業に身を捧げているこの施設のシスター方にも
挨拶いたします。」(省略)


「あわれみ深い人は幸いである。その人はあわれみを受けるであろう」


(マタイ57)。私は回勅(かいちょく)「神のあわれみ」の中で、

あわれみの行為が常にもつ深い意味あいを強調して、「私たちから慈しみを

受けているその人から、私たち自身も同時に慈しみを受けているのだと

確信しているときだけ、私たちの慈しみをこめた愛の行いは本物である」と

教皇は言いました。



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11)ヨハネパウロ二世が日本を出発する前に教皇による無原罪の聖母への
祈りで日本のことを祈った:

この教会は、ちょうど最初の弟子たちと信者たちのように、福音書のあの
「小さい群」にすぎません。しかしそれは、キリストが「おそれてはならない・・・
あなたたちにみ国をくださるのは、あなたたちの父のみ心である」(ルカ1232)
励ましてくださった小さい群であります。

 教会のけがれなき御母よ、御子にお取り次ぎくださって、

この「小さき群」が日々日本における神の国の、より効果的なしるしと

なるようお取り計いください。またこの小さき群を通して、神の国が

人々の生活の中に一層輝きを示し、信仰の賜もの

と洗礼のお恵みによって、他の人びとの間にも広められて行きますように。

神の国が日本の教会の子どもたちの模範的キリスト教生活を通して、より

力強いものとなり、また世界の歴史が神において完成される日をまちながら、

主の再臨の希望に支えられ成長を続けていきますように。」


 原罪のけがれなき御方よ、私はこのことをあなたの配慮にゆだねます。

そして、このことを日本のすべての聖なる殉教者、またこの国を

これほどまで愛した神の使徒、福者マキシミリアン・コルベの取り次ぎに

よってキリストに嘆願いたします。アーメン。

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ヨハネ・パウロ二世のエネルギーはどこから出てきたかと質問された西山神父は:
「それは祈りに時間をかけられるからです。祈りの中から湧いてくると
感じています。教皇は、ミサを毎朝午前7時に始められた。ミサの前に
長く祈られ、ミサ中の福音朗読のあとにも、長い黙想をされ、ミサが
終わったあとも、また、長いお祈りをなされるのです。世界中の責任を
担って、一所懸命祈っているという感じが、そばにいて、ありありとわかります。
本当に夢中で祈ってらっしゃいます。あの祈る
お姿にも心をうたれました。」と答えた。

ドロタ・ハワサ
(写真:聖母の騎士1981年4号、マリアン・ハワサ、ドロタ・ハワサ)




















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by NaszDomJaponski | 2018-10-17 18:19 | Japanese Christians | Comments(0)
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