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《乙女の祈り》は世界初のミリオンヒット曲


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(ボンダジェフスカの墓(全景)筆者撮影)

テクラ・ボンダジェフスカーバラノフスカ(国外ではバダジェフスカとも表記)の名を初めて耳にしたのは、私が日本学科の学生だった
1986年のワルシャワで、宮山幸久というポーランド音楽狂の学生と出会ったときでした。《乙女の祈り》は日本で良く知られ、彼の母
最愛の曲ということでした。彼女は9歳の小学生のときに仙台で初めて《乙女の祈り》を聴き、すっかり魅せられ、ピアノを習い弾ける
ようになりたいと切望しましたが、その夢は叶いませんでした。宮山氏は大学卒業後レコード会社に勤め、20年にわたり
ボンダジェフスカの楽譜を集めました。2004年に集め終えてCDの制作を決め、作曲家についての解説執筆を私に依頼しました。
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彼女に関する情報はとても少なく、その生涯に関する記録や手紙は戦争中に焼失したらしく、家族の消息はわかりませんでした。
彼女の人生の痕跡を探していて、1991年に国際天文学連合が彼女に敬意を表し、金星のクレーターの一つを「ボンダジェフスカ」
と命名したという情報を見つけた程度でした。私はこの作曲家が、なぜ母国でこれほどまでに知られていないのか、
不思議に思うようになりました。

彼女は母の故郷ムワヴァ(ワルシャワから北北西に約100km)で1829年に生まれました。父のアンジェイ・ボンダジェフスキは
おそらく、現在はウクライナ領になっている村の出身で、1835-37年頃ムワヴァからワルシャワへ引越し、ノヴィ・シフャト
第10警察署長、その後ワルシャワ警視庁ナレフキ警察署長となりました。一家は戦前のワルシャワで最も賑やかな街の一つで、
現存しないナレフキ通りに住んでいました。この街の建物は第二次世界大戦中、特にユダヤ人ゲットー蜂起とワルシャワ蜂起のあと、
完全に破壊されました。

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18世紀末に、ピアノはワルシャワで最もポピュラーな楽器の一つとなり、19世紀の初めには、すでに良家の子女の花嫁修業と
教養の象徴でした。残念ながら、若いテクラが誰からどのようにピアノを学んだのかはわかりません。アダム・スウォムチニスキの
論文「世紀のヒット曲」(1978)によれば、「ワルシャワ・クーリエル Kurier Warszawski」紙第100号(1851.4.14)に
「最近ボンダジェフスカ嬢作曲による《乙女の祈り》というピアノ曲が出版された。楽譜は各ミュージック・ショップで購入可能。
価格は45コペイカ」という告知が掲載されました。次いでボンダジェフスカ嬢がマズルカ《友情の思い出》を作曲したという
知らせも現れました。
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1852年に《乙女の祈り》が重版され、1853年にはマズルカ《甘き夢》と、《乙女の祈り》第8版が出版されました。
作曲家は自作品の楽譜を自宅で販売したり、楽譜を扱っている店に足を運ぶなど熱心に営業にかかわったようです。
ほとんどの資料では《乙女の祈り》の刊行年を1856年としていますが、上記からそれは誤りだとわかります。

《乙女の祈り》の人気は、フランスの有名な音楽雑誌「音楽新報 La Revue et Gazette Musicale」(1858.9.26)に
フランス語のタイトルで付録とされたためです。センチメンタルで優雅なメロディが世界中の人々の心をとらえ大ヒットと
なりました。同誌はこの作品を次のように紹介しています。

「今号では《乙女の祈り》をお届けします。曲は魅惑的なハーモニーが特徴で、これまでにドイツで4版を重ねる成功を
収めました。《乙女の祈り》は、和音のハーモニーで表現され、天上的語り口と音楽のささやきが織りなす作品に与えられる
絶美なタイトルです。タイトルを見れば誰でも、この作品は乙女の魂の敬虔な期待と、天使が彼女たちを神のもとへ導く
という純粋な信仰を表現していると思うでしょう…。宗教的な恍惚と歓喜の代わりに、数オクターブにまたがる
美しいメロディが、明るく透明な作りと、穏やかな指使いで表現されます。曲の和声は控え目ながら心地よく、
軽いジョークを含み、華やかなトリルの優雅なメロディを特徴とします。若い演奏者はこの短くて決して難しくない曲の
演奏の軽みと精度を簡単に習得できます。形式は控え目で、温和です。曲自体は多くの労力を要せず、神の恵みの息吹を
感じさせ、人間の感情の深みに触れることができます」。
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「音楽動向Ruch Muzyczny」誌1860年第33号は「ブランデュス・デュフール社がボンダジェフスカの新作楽譜を発売した。
《乙女の祈り》は音楽界中で有名で、音楽界外でもたいへん愛されている。以前の版は4千部ずつ売れたが、五大陸に散らばった
この曲の総数は百万部単位になるだろう。これは音楽界外の売り上げがどれほど巨大かを示している」と述べています。
同時代の他の作品で、当時《乙女の祈り》ほどの成功を得たものはありません。同誌1859年第41号も「ベートーヴェン、
ショパンその他の人気者もこの曲の陰に隠れてしまうだろう」と述べています。《乙女の祈り》は音楽史上最初のミリオンヒット曲
といってもいいでしょう。歌にもなり、日本語、ポーランド語ほかのさまざまな言語による歌詞がつけられました。
英語の詞はジョン・ストーウェル・アダムスが書いています。
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宮山氏はボンダジェフスカの名で出版された40曲以上に及ぶ作品リストを作りました。彼は同じ曲がさまざまなタイトルで
世界各地から出版されていることに驚きました。2007年にはキングレコードから、ボンダジェフスカ作品とされる17曲を
収録したCD「かなえられた乙女の祈り」をリリースしました。

その4年後、2011年に彼は「音楽新報」誌(1863.6.7)で、彼女が実際に作曲したのは《乙女の祈り》、《甘き夢》、
《田舎小屋の思い出》、《マズルカ》の4曲だけ、という記事を見つけました。同誌によれば、ブランデュス…社が、
作曲家自身のサインした契約書に基づき著作権を取得して刊行したのはこの4曲だけでした。同誌はやや素っ気ない口調で
こういっています。
「数年前ワルシャワの作曲家テクラ・ボンダジェフスカが、(1)《乙女の祈り》、(2)《甘き夢》、(3)《田舎小屋の思い出》、
(4)《マズルカ》というタイトルのピアノ曲を作り出版した。このうち最初の曲《乙女の祈り》は大ヒットした。
ブランデュス・デュフール社は作曲者との契約と、彼女のサインした合意文書に基づき全4曲を発売する権利を買い取った。
彼女の死後、遺族によれば、彼女の作曲したその他の作品は、どこも出版していない。彼女の名前と名声を利用しようと、
ロンドンのある音楽出版社が、彼女の作曲なるさまざまなピアノ曲を発行したが、その出処は完全に不明である。
《かなえられた祈り》はそうした曲の一つで、その音楽出版社はフランスとベルギー、すなわちパリとブリュッセルでの
出版に関してこの曲の著作権を有すると主張している。ボンダジェフスカ嬢の名誉と思い出のために、ブランデュス…社は
彼女の作品の独占出版社として、他の出版社と世間に対し、そのような事実と反する行為に対する抗議と警告を
しなければならない。ロンドンの音楽出版社は自分の犯罪行為を認めるべきである。我々は上記の4曲以外の、その死後に
彼女の名で出版された、あるいは今後される作品はすべて、実は金で雇われたゴーストライターの作だと立証できる」。
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(CD録音の時2006年の秋撮影された写真)

フランスの雑誌記事は、宮山氏の疑問に答えています。CD録音の際、彼は作品の大半に刊行年も地名も記載がないことを
疑問視していました。また、作曲者の死後10年も経ってから、これほど多くの作品が現れていること、多くの作品が
ポーランドではなくロンドンで出版されているが、英国と何の関わりがあったのだろうかと首を傾げていました。
たとえボンダジェフスカが、短い生涯にわずか4篇しか作曲しなかったとしても、彼女は作曲家として音楽史に重要な位置を
占めたでしょう。なぜなら彼女以上に、世界中で大ヒットした曲を作った人はいないのです。

音楽評論家たちは、軽音楽の革新的で大衆的な特徴を見落としたようです。ところが、《乙女の祈り》はクラシック音楽の
本流から離れることなく、ポップスの勃興をもたらしたのです。作曲者が女性であることや、音楽の訓練の欠如や、
年齢が批評家の目を曇らせたのです。宮山氏によれば、ボンダジェフスカは過小評価された天才です。結局、当時このような
大ヒット曲を、しかも22歳で作曲した作曲家は世界中どこにもいませんでした。
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「ワルシャワ・クーリエル」紙(1861.9.30)に訃報が載りました。「故テクラ・ボンダジェフスカ=バラノフスカは昨日27歳で
この世を去った。深い悲しみに沈んだ夫と5人の子どもと親族がドミニコ教会で行われる葬儀ミサに招いている」。作曲家は
ポヴォンスキの墓地に埋葬されました。訃報には誤記があります。実際は行年32歳でした。それでもまだ、5人の子の母としては
早すぎる死です。テクラは1852年にヤン・バラノフスキと結婚し、二重姓を用いていました。
2009年に私はワルシャワ国立公文書館でテクラとヤンの2人の娘──マリア・ヴァレリヤ・バラノフスカ、1855年4月11日
ワルシャワ生まれと、ブロニスワヴァ・マリア、1856年9月23日生まれ──の出生記録を見つけました。

ワルシャワ音楽院の1875年の記録には、ピアノ上級クラスで学んでいた、テクラとヤンの娘のブロニスワヴァ・バラノフスカは
「かなり才能があるが、音楽の基礎教育が不十分」と記されています。その後の数年、音楽院でユリアンとヤニナ・バラノフスカが
それぞれファゴットとピアノのクラスで学んでいます。ヤニナはテクラとヤンの娘です。ユリアンも彼らの息子でしょうか?
母の死後、夫と5人の子供の運命はどうなったのでしょうか?ヤンはロシア帝国陸軍に簿記係として勤務していましたが、
1863-64年に起きた一月蜂起のあとウズベキスタンのタシケントへ異動となり、状況証拠からみて、ワルシャワには
戻らなかったようです。

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ワルシャワのポヴォンスキ墓地で作曲家の墓を見つけるのは容易ではありません。正門を入って左折、教会の後ろへ進み、
ショパンの両親やヘンリク・ヴィエニャフスキの墓の近く、27-28区画1列目182号の墓です。そこにシンプルながら印象的な
墓碑があります。前面に十字架、背後に物思いにふける古代彫刻のミューズ、弔辞を記した銘板つきの断ち切られた木の幹に
右肘をつき、伸ばした左手にはフランス語で《乙女の祈り》と墓銘を記した半開きの巻物。足元には芸術と成功のシンボル、
リラ(竪琴)と月桂冠。墓には「バラノフスキ家の墓1862年」、その下に「作曲家・ピアニスト、テクラ・ボンダジェフスカ」と
刻まれています。

ドロタ・ハワサ (POLE 85号、2015年5月)
(安藤厚訳/ドロタ・ハワサ協力)

Dorota Hałasa、ジャーナリスト、東京在住。原題 „Modlitwa dziewicy” pierwszy przebój na świecie” 
2006年12月6日。オリジナル版は2008年1月29日ポーランドラジオ・ルブリン初演、ドロタ・ハワサと
カタジナ・ミハラクのラジオ・ルポルタージュ「忘れられた祈り」で使用。同番組は2009年9月に
トリノ国際テレビ・ラジオ・インターネットコンクールの音楽ルポルタージュ部門でイタリア賞を受賞。
短縮版は音楽CD「かなえられた乙女の祈り─バダジェフスカ作品集」(2007、キングレコード)の解説と、
「あなたのミューズTwoja Muza」誌2008年第3号(ワルシャワ)に発表。

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by NaszDomJaponski | 2015-06-09 10:05 | Information | Comments(0)